教える、教えない問題

よく現場で『考えろ』という言葉を聞く。

子供に考えさせるだけならコーチはいらない。

もちろん自分で考えることは必要なんだけど、考える材料は『教えていかないといけない』

考えさせるだけだと子供達が自発的に考えて自発的に動くだけ…正解もエラーもわからないまま育つことになる。

サッカーコーチという名目なのであれば『教える』がなければいけない。

教えすぎはダメ…

と日本ではいうけど、あまり他の国で聞いたことはない。

ここに関してなんでなんだろう?という疑問がある。

そんなことを考えていたら、ある動画に出会った。

『教えられた経験が無いから教えることができない』

例えるなら

運転を教えられた経験がない人が、他の誰かに運転を教えることはできない。

だから、自分で考えてと伝える。

そう考えると自分の指導も見直すことができる。

教えられない指導者もかつては教えられてこなかった少年だったということも想像できる。

言い方を変えると被害者な訳で…

その被害者が新たな被害者を生んでしまう…

今、自分の指導を振り返ると以前の子供達には申し訳ない気持ちになった。

まだまだ未熟だが、もっと未熟な時代に指導と呼べるものではなかったのに通わせてくださった親御さんや通ってくれた子供達には感謝を忘れずに今の指導という部分をさらに見直していく。

指導者側が学び続けなければいけない。

そうでなければ技術のみに目がいってしまい、子供達の元々備わっているポテンシャルのみで相撲を取るみたいになってしまう。

あたかも、そのスピードは自分が教えたかのように、あたかもその体の大きさは自分が伸ばしたかのように…

良い子が入ってきたら強い!

という指導者になってしまっていること。

そこにまず気が付かないといけない。

これ自体、自分が望んでいることではない。

巧くなりたい、強くなりたい子達が入ってきて目標に向けて指導に携わる。

そこの部分に目を向けて本日も指導に向かう。

サッカーの指導者というなら、サッカーを教えなければならない。

サッカーというスポーツを理解していないと教えることはできない。

これはライセンスを持ってるとか持っていないとかの話ではない。

そこで育っている子供達を見ればわかる。

どんな子供が育っているのか?

そこで勝負していきたい。